「春子って名前、いいな。」

律が私の名前を褒めたとき、珍しく私は嫌悪感を感じなかった。

否定する私を宥める様に、友達が私に与える肯定の言葉。それらがいつも忌々しくて仕方がなかった。
それなのに、律に紡がれたその言葉は、遮るものなく私の心に溶け込んだ。
つまりそれは、私にとって律が心を許せる友であるということだ。

つまり、そういうことだ。


律と夢落ち少女


図書室。

図書委員というものは、何でこんなに面倒な仕事が多いのだろう。
私は向かいに座る少女のシャープペンが方眼紙の上で動かされるのを眺めていた。
(け、だるーい…)
細身のパステル色のシャープペン。紙の上を撫でる黒鉛の音。
手が止まる。
「はい、梢ちゃん。あとは名前だけだよ」
「あ、有り難う。」
少女は綺麗な笑顔まで付けて私に方眼紙を手渡してくれた。器用でない私は愛想のない声でしかお礼を言えない。
細かく丁寧に書きこまれた方眼紙に、ご苦労なもんだ、と心の中で嘲り混じりに苦笑した。
左上に大きく書かれた『図書館だより』という題字の下に、「東 真理奈」と言う名の下に、綺麗に1行分のスペース。
そこにいつもより幾分が丁寧に自分のフルネームを書き込む。

「梢 春子」

辟易した。
私は、この名前が昔から気に入らない。
名前みたいな名字も、名字に負けてるありふれた名前も。大体私は冬生まれじゃないか。
昔母にこの事について愚痴を言ったことがある。私の不服申立てに、母は一瞬だけ悲しそうな顔をした。
でもそれはホントに一瞬で、すぐにいつもの飄々とした顔に戻って、そりゃ悪うございましたねぇ、とコタツで背を丸め顎を天板に置いたまま蜜柑に手を伸ばした。そのとき、何でか「まぁいいか、この名前も。」と思えたのだが、三日もしないうちの事、放課後の教室でクラスの男子が3〜4人、あいつの名前って上と下どっちが名前かわかんねェと笑ってるのを聞いて、またすぐに嫌になった。あの日の帰り道、吐き気がした。自分のどこかに溶けている「梢春子」と言う名を振り切りたくて、斜陽がさす5時前の帰り道をがむしゃらに走った。

自分の灰汁がある性格は名前のせいだと今でも思う。
笑顔がうそ臭くなるのも名前のせい。
腫れぼったい瞼と、それなのに妙に大きく可愛げな無い目もきっと名前のせい。
名前のせいで私は真っ直ぐに人生を生きられない。
梢春子と言う名が憎い。

「はい、書いたよ。」
「うん、じゃあ完成だね。先生に見せなきゃいけないけど、もうすぐ来ると思うんだけどな…」
彼女が持たない間を逃げるようにカウンターを振り返る。さほど親しくない彼女、東 真里奈に申し訳無い。
こんな捻くれ者と同じ委員会とは。さぞ息苦しい事だろう、と思いつつも憮然とした顔つきしか出来ない私。
複数の騒ぎ声が聞こえてきたかと思うと、入口が開き、大音量で流れてくる。三〜四人の下級生達の笑い声。
ひとりの視線がこちらを捕らえ、あっ、甲高い声を漏らし指を指す。
「真里菜先パァイ!」
「なっちゃんじゃん」
東 真里菜が手を振る。
彼女等はきゃーきゃー言いながら(嬉しいらしい)、キンキン声を先頭にぞろぞろと、東 真里菜を囲む。キンキンした声が耳に痛い。
「先パイ何してるんですかぁ?」
キンキン声が独特のイントネーションで尋ねる。少女のアイロンで潰しパサついた髪をぼぅっと眺めた。
「委員会の仕事でねー。えー?皆はー?」
彼女の嬉しそうな顔。名も知らぬ後輩達。机の向こう側とこちら側で生じてる温度差。僅かな、心の中の息苦しさ。
居心地悪くて、机の方眼紙に目を落とした。綺麗な楷書は彼女の字。癖のある右上がりの字は私。
「…ね!梢ちゃんも赤が良いよね!」
唐突に東 真理奈に話を振られて吃驚して顔を上げる。
「何が?」
「制服のスカーフ!赤が良くない?」
その問い方って肯定否定取りにくいでしょと心の中でぼやきつつ、精一杯「自然な笑顔」を浮かべて「うん」と答える。
「ほらぁ!やっぱり赤だよースカーフは」
と、一瞬の返事で彼女達は盛り上がり、私はまた彼女等の空気から分離する。
さっきのは東 真理奈の気遣いだろうが、かえって私は孤立してしまう。せっかくの厚意だが、こう言うときは完全にほっといて欲しい。恩知らずと思うかもしれないが、半端な同情は逆に首が締まる思いがする。先生はやくこい。
「くぁ…」
あくびが出た。それを見て東 真理奈が苦笑して見せる。
「梢ちゃん、眠いの?」
「んー…」
下級生の視線が注ぐ。侮蔑も好意も無い。他人への目線だ。
「先生来るまで寝といたら?」
彼女の提案によっしゃ、とばかりに、
「そうする。」
と答え、私は外界との交信を断つかのように即座に机にうつ伏せた。伏せた顔を腕でしっかり囲い、外の光が入らないよう、こちらの顔が見えないようちゃんと反対に逸らして。
そして、規則的な呼吸に努める。
暫く間を置いて、彼女等のトーンを抑えた囁きをいやという程耳が傍受する。
「ホントに寝てないですかぁ?先パイこの人」
意味分からない、と言う風にキンキン声が乾いた声で笑い、複数「だねー」と苦笑する。
「んー、梢ちゃん確かに変わってるけど」
東 真理奈が適当に答える。
「変わってるって言うかぁ、変って言うか…正直愛想無いですよねぇ」
ひそめた笑い声が下卑たもののように感じた。
「てゆーか目つきがちょっと…」
余計なお世話だ。
「んーまぁ、ちょっとねぇー」
そう答えた東 真理奈の声に、元々信じ合っていた訳でもないのだがどうしてか裏切られた気がした。
「私もそんな親しいわけじゃないし」
あははは、と笑った東 真里菜の声。やっと私の話題が終わり、彼女たちのふわふわと宙に浮いたようなどうでもいい批判が続いた。矛先がまた自分に向くかもしれないと思うと胃がむかむかした。
律、律に会いたい。早く律と帰りたい。この場から去りたい。濁った感情が私の中の律の存在まで否定してしまいそうでこわい。そうなる前に、本当に眠ってしまおう。
寝ることだけに集中して。


見上げると、光りのさざ波が綺麗な模様になって漂っていた。その模様が、白い砂の地面にも同じく投影されている。遥か遠くは瑠璃色。海底の空気は澄んでいる・・・いや、これは海水なのだろうか。
私は光の網目模様の上をゆっくり歩いた。さくさく、と砂の上に足跡がつく。振り向いて足跡を見ると、風に乗ってさらりと砂が舞って跡を少しずつ被っていく。やがて見えなくなるだろう。
暫く歩いて、ふと私はその場に膝をついて、砂を掬った。さらさらとすなが指の間から流れ落ち、海の空気に霧散する。砂が落ち、手の中に残った確かな質量のあるもの。
「ビー球?」
にしてはちょっと大きめの、透明の硝子球。つるりとした表面。覗けば青い世界と白い地面が歪曲し逆さになって映る。
「おめでとう」
「おめでとう」
全く同じ子供の声がふたつ。はっとなって顔を上げると、ちょうど顔の高さの左右に、二尾の細長い銀色の魚。
「よかったね」
「よかったね」
魚たちは前を向いたままで、直接脳に響くように声がする。
そうだ、これを探していたのだ私は、と気付いてホッとする。私は助かったのだ。
「さあゆきましょう」
「わたしたちにつかまって」
魚たちの抑揚の無い声に促されて、私は硝子玉を右のポケットにしまって、宙に浮く彼らの尾を右手で右側のを、左手でもう片方のを掴んだ。
「ひとつだけやくそく」
「ぜったいにまもって」
ふわ、と、かすかな魚達の上昇に従って、私の足が白い砂を離れた。
「とちゅうでうえをみてはいけないよ」
「ぜったいにうえをみてはいけないよ」
私が頷いたのを確認したのか、魚たちは私をぐん、と引っ張って泳ぎ始めた。泡が後ろに流れていく。魚達はどんどん速度を増し、泡の粒が目で追えない位になる。私の体にも反対方向に凄い圧力がかか。
それでもスピードは上がり続ける。
「こわい、こわい」
叫んでみても直ぐに後ろに流れてしまう。
もう耐えられない、と思ったとき、ごお、と大きな波が私の体をあおった。私は状態を仰け反らせ、ああしまったと頭のどこかで思った。

上を見てしまった。

水面には白い太陽が移っていて、それを囲み、手を伸ばすように灰色のビル群がそびえ立っていた。

嫌ってきた世界の姿。

なのに、かえりたい、とおもった。


「かえろう」という声が聞こえた気がした。


「はるこ」
ぐらぐらと揺さぶられ、ふと頭が閃きがばりと頭を起こした。
「わ、起きた?」
「・・・りつ?」 横には律がいた。見慣れた大きな机、見慣れた本棚、斜陽差す見慣れた図書室。
「・・・わー、爆睡してた・・・」
「みたいだね」
律がふふ、と笑った。私は違和感のある目を擦って、東 真理奈の存在がふと頭に浮かんだ。
「東さんは?」
「帰っちゃったよ。原稿は自分が先生のとこ持っていくから、疲れてるみたいだし寝かせてあげといてって。」
遥か遠くであの時の笑い声が蘇る。私は俯いて苦笑した。
「それと・・・いやな気分にさせてごめんなさい、って。」
その言葉に、記憶の中の笑い声が霧散した。
「何かしたの?」
律が首を傾げて尋ねる。
委員会のサボりが多く二人しか来ていないと分かったとき、「困ったね」と笑った彼女を思い出した。
急に自分が情けなくなった。
「・・・何でもない、よ。」
彼女は無愛想な私と騒ぐ後輩達の間で、きっと困った笑みを浮かべていたのだろう。
「はるこ」
律が私の名前を呼ぶ。その声が好きだ。
「帰ろう」
律が私の鞄を抱え私に手渡す。
「ん」
私は立ち上がり、律と一緒に図書室を出た。
夕方の校内少し暗くて静かだ。
階段の数段下を歩く律を、私は「律」と呼び止めた。
「律は、自分の名前気に入ってる?」
何となく聞いてみた。
「うーん・・・そうだねぇ・・・」
律はそのまま数段降りて、最後の二段を一気に飛び降り、振り向いて私を見上げる。そして、悪戯っぽい笑顔。

「すき、とも限らない。」

律は直ぐに前を向いて先を行く。私は慌てて階段を駆け下りた。
「なんで?嫌いなの?」
靴箱で二人肩を並べて靴を取り出す。
「律って名前、すごくいいと思うなぁ、あたし。」
「春子って名前、すごくいいと思うナァ、アタシ。」
「・・・私が嫌がるって知って言ってるでしょ。」
二人で昇降口を出た。西向きの出口だから夕焼けが良く見える。何せ田舎なものだから、空の広さだけは大した物だ。焼ける空、焼ける雲。
「わー・・・」
そう言えば、さっき寝ているとき夢を見たのだった。全体的に青い夢だったから、オレンジ色はどこか新鮮だ。
「はるこ」
背伸びしていた私を律が呼んだ。
「なあに」
「好きとは限らない、っていうのは。好きなときと嫌いなときがある、ってことだよ。」
律が空を見ながら私と並んだ。
「名前って殆ど自分自身だから、受け入れたくないときだってあるよ。」
「律も?」
「当たり前。」
「ふーん、律っていつも『余裕だぜー』って顔してるからなぁ」
「私を何だと思ってるの」
そう言って律はくすくす笑ったので、私も笑えてきた。
「はるこも、そのうち自分の名前が好きになるよ。今は嫌いかもしれないけど」
「・・・なんか、そういわれればちょっと、好きになったかも・・・」
「そう?」
「だって私自分大好きですから。」
「あらま」
それから二人で笑いながら帰った。
私は、もし子供が生まれたら「律」って付けたいなぁと思ったけど律には言わないでおいた。

いつも一喜一憂の私。
そんな私を年上のようになだめる律。

律の落ち着き加減に時々ちょっと悔しくなるけど

とても心地良いのです。

律と私の、そんな関係。